我的“藤野先生”

   日期:2024-09-24     来源:undefined    作者:147小编    浏览:0    

我的“藤野先生”

斋藤桃(敦贺气比私立高中3年级)

中国伟大的文学家鲁迅先生在日本学医时,曾遇见了一位和我同样出生于福井县的老师,这位老师名叫藤野严九郎。后来,鲁迅在自传体小说《藤野先生》中这样写道:

“在我所认为我师的之中,他是最使我感激,给我鼓励的一个。”

而我的“藤野先生”则是在上海遇见的。

进入高中不久,在选课申请表上我随意勾选了汉语这项。现在想来,这一选择极大改变了我的命运。

那时的我,刚刚结束了持续11年之久的花样滑冰学习。没有了这项让人着迷的运动,每天我都有气无力地熬着日子。汉语课上,我在老师的敦促下机械地重复着发音,老师讲授的语法也是过耳不过心。因为这种及格就行的心态,不管是考试还是学习我都没上过心。

某天汉语课后,老师问我:“要不要参加一次汉语游学团?”单纯抱着想要去海外、寻找些刺激的想法,我立刻下定决心。其实,从那时起,我就已经被命运的波涛裹挟前行了。

在上海学习汉语的日子里满是新鲜事儿,目所能及的一切都是新奇且刺激的。走上街头,往来的人流与洪水般的车流超越了我的想象。周围到处是中国人高声交谈的声音,展现出了勃勃生机。像这样,每天都欢呼雀跃、兴致勃勃,是我在练习花滑时也未曾经历过的。

在这里,我遇到了一位名叫田甜的中国老师。

在同来上海研修的同学中,我的汉语能力最弱,还不怎么会用英语交谈。因为无法表达意思所以也不能加入到大家的对话中去,总是显得很沉默。也许是对这样的我心生怜悯,田老师总是十分关注我,并且很有耐心地笑着和我说话。我真切地感受到在田老师心里,我是最特殊的那一个。

鲁迅的笔记本上,密密麻麻地写满了藤野先生每次添改的内容和对日语语法的修正。这些修改,在藤野先生担任鲁迅老师期间从未间断过。为了使鲁迅有所成就,藤野先生一直倾注心血地教导他。田老师也像藤野先生那样,在我研修期间,不断鼓励着成绩差强人意的我。

研修的最后一天,我拿着田老师返还给我的笔记本,不禁痛哭失声。笔记本里,有着田甜老师努力用日语写给我的留言:“能够教导你是我的荣幸。”

回国后,我开始充满热情地学习汉语,不断挑战各种演讲比赛和能力测验,课堂上也努力学习,考试成绩经常是全班第一。田老师唤醒了我心中的“勇气”。

高中毕业进入大学后,我计划真正走上汉语学习之路。希望有一天能为中国贡献出我的一点儿力量,以报答她让我邂逅了一位如此出色的老师。

获奖感言:首次来京,初遇成都。我的眼中满是第一次见到的新鲜景象,感觉自己对世界的认知进一步拓宽了。我因而萌生了一个想法:要从事与中国有关的工作!我非常羡慕在人民中国杂志社工作的各位。对日本还了解得不够充分的青涩的我们也感受到了要肩负未来发展的重担。未来是光明的。通过这次旅程,我想要进一步了解中国。

私にとっての藤野先生

齋藤もも(私立敦賀気比高等学校3年)

中国の偉大な文学者・魯迅が日本に留学し医学を学んでいた頃、私の故郷である福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。魯迅は後に自伝小説『藤野先生』にこう記した。

「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。

私にとっての「藤野先生」は、間違いなく上海で出会ったあの人だろう。

高校に入学して間もない頃、選択科目希望調査用紙の中国語と書かれた欄に私は何気なく丸を付けた。今思えば、ここで私の運命は大きく動いたのだ。

あの頃の私は、それまで11年間続けてきたフィギュアスケートを辞め、夢中になれるものをなくし、ただ毎日を無気力に過ごしていた。中国語の授業では、ただ促されるままに機械的な発音を繰り返し、先生の文法の説明をぼんやりと上の空で聞き流す毎日だった。赤点でなければいいという程度の意欲しかなかったので、テスト勉強などもまともにしたことがなかった。

そんなある日の中国語の授業後、先生から「中国語学研修に参加してみない?」と声をかけられた。ただ「海外に行きたい」「刺激がほしい」という理由で、即決した私。しかし、この時もうすでに、私は運命の波に背中を押されていたのだ。

上海での語学研修は未知との遭遇ばかり、目にするものすべてが新鮮で刺激的だった。街へ飛び出せば、私の想像をはるかに超える人、人、人の大群。車、車、車の洪水。あちらこちらで大声を張り上げているエネルギッシュな中国人のパワー。こんなにも毎日がワクワク楽しくて、高揚感を感じることはフィギュアスケートをしていた時にも感じられなかった。

そこで私は1人の中国人教師・田甜先生に出会った。

一緒に行った研修メンバーの中で、私の中国語力が一番低かった上、英語もさほど話せるわけではない。意思の疎通ができずに話の輪に入れず、いつも無口だった私が不憫に見えたのだろうか。彼女はいつも私のことを気にかけてくれ、根気よく笑顔で話しかけ続けてくれた。私は田甜先生から、他の誰よりも自分が特別に思われていることを実感していた。

講義を筆記した魯迅のノートに、藤野先生は毎回書き切れていないところの補足や日本語の文法の間違いを指摘する添削を行った。その添削は、藤野先生が魯迅の授業を担当している間、ずっと続けられた。藤野先生がなんとしても魯迅に大成してほしいという思いで心血を注いで指導し続けたように、田甜先生は研修中、出来の悪い私をずっと励まし続けてくれたのだ。

研修最終日、返却されたノートを目にした途端、私は声を上げて泣いた。そこには頑張って書いてくれた日本語で田甜先生からのメッセージがこう書かれていたのだ。

「あなたを教えることができて、私は幸せでした」

帰国後、私は意欲的に中国語を勉強し始め、スピーチコンテストや検定試験に次々と挑戦するようになった。授業にも一生懸命取り組み、テストではいつもクラストップの点数をとるようになった。田甜先生は私の中の「勇気」を呼び覚ましてくれたのだ。

高校卒業後は大学に進学し、より本格的に中国語を学ぶ予定でいる。そして、こんなにもすばらしい先生に巡り合わせてくれた中国に、いつか恩返しをしたいと思っている。

訪中の感想:初めての北京、初めての成都。私の目には初めての景色ばかりで自分の世界が広がっていくような気がしました。その中でも私は中国との仕事をしたい!人民中国雑誌社の方々に憧れを抱きました。まだ日本のこともまともに知らないちっぽけな私たちがこれからの未来を背負うべきだと思い知りました。まだまだ未来は明るい。もっと中国を知りたいと思える旅でした。

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